漢詩人ー藤井竹外ー

竹外と漢詩の出会い

幕末の動乱期を生きた一人の高槻藩士がいました。竹と酒をこよなく愛した彼は風景や、人を思う心を情感に満ちた多くの漢詩に詠みました。名を、藤井竹外と言います。
藤井竹外は文化4年(1807)4月20日、高槻藩士藤井沢右衛門(貞綱)の長男として生まれました。本名は啓、字は士開、雨香外史、小広寒宮主人などと号しましたが、最もよく知られているのは竹外、竹外酔士の号でしょう。
8歳から18歳の塾生が学ぶ藩校菁莪堂で竹外もまた、武芸を磨きこの時期に漢詩との付き合いが始まります。
初め頼山陽に入門し、山陽亡き後は梁川星巌に師事しました。

竹外の漢詩

竹外邸跡
七言絶句に優れていました。題材は時事について取り上げるのは稀で、風物、人情に関するものを多く詠んでいます。
方々へ吟行し、一例を挙げると東山、嵐山、比叡山、吉野などがあります。美濃の養老の滝は二度訪れていますし、関東方面では上野、佃島など有名なところを巡って詩嚢を肥やしました。
一つ一つの作品から、竹外が自然の繊細な美を感じ取っていたことが窺えます。また、彼の目を通して江戸時代の日本の美しい風景が心の中に蘇ってくるようです。

竹外の代表作「芳野」

「絶句竹外」の名を不動にした作品が「芳野」です。古来、後醍醐帝の陵墓吉野山を詠じた詩は多くありますが、その中で秀逸な三首の絶句を「芳野三絶」と呼び習わします。竹外の「芳野」はまぎれもなくこの中の一つに数えられます。教科書にも採用され、多くの人に親しまれてきました。

晩年の竹外

江戸幕府が崩壊へ向かい、明治の足音が近づく混乱の時代を生きた竹外。55歳で隠居し、京都三本木に移り住みます。ここは先師頼山陽の旧宅に程近く、後に師事した梁川星巌旧宅とも鴨川を隔てて相対する位置でした。悠々自適の詩作生活を送ったとされる一方、後に尊王歌人とも呼ばれる彼の胸中にどのような思いがあったのか、想像せずにはいられません。
隠居から5年後、慶応2年(1866)7月、竹外は60年の生涯を閉じました。その2年後、明治時代が幕を開けます。
竹外の遺体は高槻市の乾性寺に、遺髪と印章は京都長楽寺頼山陽墓の側に葬られました。乾性寺の墓は、後に五輪塔を残し本市本行寺に移されます。比類なき漢詩人、藤井竹外は今も故郷の地で眠り続けています。
竹外歌碑 花朝澱江を下る