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西国街道をたどる -古代の山陽道ー

西国街道の歴史をたどっていくと、奈良・平安時代の山陽道にまでさかのぼります。高槻市内でみつかった山陽道跡から、当時の交通と嶋上郡に置かれた交通施設・大原駅(おおはらのうまや)についての資料を中心にご紹介します。

1 古代の交通と山陽道

7世紀から8世紀にかけて、律令制にもとづく中央集権の国づくりが進められ、都と各地方をむすぶ交通路が整備されました。このうち主要な7本の官道は「七道」と呼ばれ、都と地方を馬で往来する使者が馬を乗り継ぐための「駅」(うまや)という施設が一定の距離ごとに設けられました。当時の文献には駅間の里程や馬の頭数などが記録されています。
高槻市遠景
山陽道は、中国大陸や朝鮮半島への玄関口となる九州の大宰府と都を結ぶ交通路として、最も重要な位置にありました。奈良時代のルートをたどると、平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て淀川対岸の摂津国嶋上郡(現、高槻市・島本町)の大原駅へ至りますが、平安時代になると、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町・長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かうようになります。畿内(近畿地方)には、奈良盆地と大阪平野とを結ぶルートや「三嶋路」と呼ばれる難波津と三島地域を結ぶ道など、いまでも利用されている多くの道路が設けられていました。
こうした陸路だけでなく、水の道として古くから河川が利用されています。大阪湾から淀川流域にかけても難波津、山崎津、淀津、泉津(木津)などの港が知られることからも、当時の陸水運のさかんな姿が浮かび上がってきます。

2 高槻市内の山陽道 ―古代のまっすぐな計画道路― 

嶋上郡衙とその周辺(想像図)嶋上郡衙とその周辺(想像図)
1970年、川西郡家地区でおこなわれた発掘調査で、律令期の郡役所「嶋上郡衙(しまがみぐんが)」とともに古代の山陽道跡がみつかりました。それ以降も、嶋上郡衙跡や郡家今城遺跡で調査が積み重ねられ、古代道路の様子が次第に明らかになってきました。

高槻市でみつかった山陽道跡は、現代の西国街道とほぼ同じ位置にありました。奈良時代の山陽道は、両側に側溝をそなえた幅約10~12mの立派な道路でした。7世紀末~8世紀前半ごろに整備された当時の都市計画道路で、各地との間を最短距離で結ぶためにもまっすぐな道を通していました。なかでも郡家地区の調査では、さきにあった古墳を破壊してまでも、まっすぐな道を貫くことを重要視していたことがうかがえます。平安時代になると、道幅は半減し、西国街道とほぼ同じの約6mとなってしまいます。路面の整備や溝さらえがなされなくなるほか、駅に常備する馬の数も次第に削減されてしまいます。高槻市で最初に山陽道が発見された以後、全国各地で調査されるようになった古代道路でも同じ傾向がみられることから、全国的に道路の維持費を軽減するような再編が行われたと考えられています。とくに高槻周辺での運送については、山陽道などの陸運よりも、大量輸送が可能な淀川水運へと変化していったことがその背景にあるのでしょう。

3 大原駅はどこに? ―神内・梶原説を中心に―

神奈備の森跡(こすもす児童遊園)神奈備の森跡(こすもす児童遊園)
大原駅は、都が平城京に遷された翌年にあたる、和銅四(711)年に設置された最初の駅であることが『続日本紀』に記されています。文献では、その後も引き続いて機能していたようですが10世紀の『延喜式』の頃には姿を消してしまったようです。駅の置かれた場所については、①地名を根拠とした原地区、②山陽道沿いで後に駅が置かれた島本町・桜井付近、③楠葉駅から淀川をはさんだ対岸に当たる神内・梶原付近など諸説があり、考古学や歴史地理の研究からは③神内・梶原南地区が有力とされているようです。
梶原南遺跡(五領町)では、整然と配置された奈良時代の建物群とともに「新屋首乙賣(にいやのおびとおとめ)」と女性の名が記された木札や古代の役人のシンボルとされるベルト金具など役所に関連した品々が発見されたことから、駅家の有力候補地に挙げられています。
時代はくだって、『古今集』源実の和歌の前書には、山崎から神内にあった「神奈備の森」にかけて、西に旅立つ途上に別れを惜しみ合う都人の姿が描かれています。 このように山陽道は、当時の社会情勢の変化が窺えるだけでなく、古代の人々の想いをも偲ばせる道といえるでしょう。