淀川と高槻のかかわり

洪水とのたたかい

淀川は高槻の交通と産業にとって、なくてはならないものでした。また政治的にも大きな意味を持ち、古代、この地に古墳がたくさん作られたのも、京と難波のふたつの都を結ぶ淀川のそば…という立地条件が要因のひとつだったと考えられます。
一方、淀川は災害をもたらす元凶でもありました。そこで、国が安定した江戸時代以降、高槻藩では、改修工事によって洪水を防止したり、逆にその豊富な水量を治水事業によって農業に役立ててきました。
大塚洪水記念碑大塚洪水記念碑
このような努力にもかかわらず、明治以降も断続的に大雨や台風による被害を受けたため、政府主導で大規模な淀川河川域改修工事が行われました。
近代に入ってからの記憶に新しい洪水の被害としては、1917(大正6)年の「大塚切れ」と呼ばれるもので、その被害は大冠村から遠く西成郡(現・大阪市)の町村まで及んだそうです。
道鵜・大塚・唐崎には、洪水や堤防改修の記念碑があります。

淀川三十石船と船唄

三十石船とくらわんか舟の模型(高槻市立しろあと歴史館)三十石船とくらわんか舟の模型
(高槻市立しろあと歴史館)
淀川三十石船は、京・伏見と大坂・八軒家の間を、客を乗せて往復した船の名称です。
全長約11~15メートル、幅1.8~2.1メートル。船頭4人、乗客の定員は28人。一日に昼夜2回往復していました。多い時には一昼夜で約9千人の旅客を運んだといいます。
高槻ゆかりの漢詩人・藤井竹外も淀川を船で下り、いくつかの漢詩を作っています。中でも著名な『花朝澱江を下る』の漢詩を記した碑が、高槻現代劇場の脇にある居住地跡に建てられています。
「三十石船船唄」は、この船の船頭たちが船を漕ぎながら歌ったというもので、現在「淀川三十石船船唄大塚保存会」の人々によって歌い継がれ、昭和54年に高槻市指定無形文化財に指定されています。また、毎年11月23日には高槻市内で全国大会が催され、多くの参加者が来場しています。
高槻市立しろあと歴史館では、どのような歌かを聴くことができます。

くらわんか舟

くらわんか舟とは、淀川を往来する三十石船の乗客に、酒や餅などを売っていた煮売り船のことです。全長5~7メートルと、三十石船より小ぶりで、横づけしやすい大きさでした。その名は「食らわんか、くらわんか」という粗い売り言葉からついたものです。
高槻・柱本が発祥の地であるとされていますが、のちに枚方にも出現し、幕末の頃まで営業していたようです。淀川改修100年記念として、柱本に「くらわんか舟発祥の地」の石碑が建てられました。 高槻市立しろあと歴史館では三十石船とくらわんか舟の縮小再現模型が展示されています。