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髙碕達之助をご存じですか?

髙碕達之助(1885~1964)は、高槻市出身の実業家・政治家で、名誉市民ともなっています。

1 水産業を志し、東洋製罐を設立

髙碕達之助
髙碕達之助は、1885(明治18)年、三箇牧村大字柱本(現高槻市柱本)の農家に生まれました。淀川の水を母として育ち、茨木中学(現茨木高校)で水産業の重要性を説く教師に出会い、東京の水産講習所(現東京海洋大学)へと進学。卒業後は三重県鳥羽の缶詰工場に勤め、1911年末からの約3年半は、メキシコやアメリカで缶詰技師として働きました。達之助は、海外経験もふまえて一つの構想を練ります。それは、空き缶をつくる製缶と、中味をつめる缶詰めの作業を分離して、より合理的に生産をすすめることでした。
1917(大正6)年に、達之助は大阪で製缶工場を設立。「缶詰業者の共同の工場」、事業を通じた「人類全体への奉仕」をうたい、現在も業界最大手である東洋製罐株式会社のスタートです。当初は、達之助が社長、技師長、販売部長を兼任する小さな工場でしたが、昭和初期には全国に10数ケ所の工場を展開していました。

旧三箇牧村の人々の信仰をあつめる三島鴨神社 その境内にある達之助の歌碑
「三島江の よしあししげき 昔より この民守る この神やしろ」
達之助の歌碑達之助の歌碑

2 満州滞在

1940(昭和15)年から、達之助は事業家鮎川義介の誘いで満州重工業開発会社を手伝い、42年からは満業の総裁となりました。45年8月のソ連軍進撃時には、満洲国の首都新京(現長春)に滞在。戦後すぐに邦人団体の代表となり、現地で独自に資金をあつめて避難民に対応しました。また、ソ連軍、共産党軍、国民政府軍と支配勢力が変わるなか、各勢力の要望に応じ協力。達之助は、「どんな主人にかわろうと、私はネズミ(事業)をとるネコだ。新しい主人に手向かうことはしないが、えさだけは与えてくれないと困る」と述べ、実業家としての姿勢をつらぬき、邦人社会の代表者として責任をはたしました。帰国したのは、47年のことでした。

3 電源開発株式会社の総裁に

1952(昭和27)年、達之助は電源開発株式会社の総裁に就任。それから約2年間、大規模なダム開発に取り組み、天竜川中流の佐久間ダム、庄川上流の御母衣(みぼろ)ダムなど難工事の成功へ道筋をつけました。 佐久間ダムは、56年の完工当時、記録映画が公開、記念切手も発売されるなど、戦後土木技術の原点とも言われています。御母衣ダムについては、水没予定地にあった2本の桜の古木が、達之助をはじめ、多くの人々の熱意で移植されたことが知られています。「荘川桜」と名付けられた樹齢約400年の桜は、今でも毎年美しい花を咲かせています。

4 政治家として

1954(昭和29)年、達之助は経済審議庁長官として入閣し、翌年には衆議院議員に当選。亡くなる64年まで議席を持ち、通商産業大臣なども務めました。冷戦が激しい当時、達之助は中国・ソ連と密接な外交交渉を持ちました。
55年、達之助はインドネシア・バンドン会議に日本首席代表として出席。平和十原則の成立に協力し、中国代表の周恩来とも会談しました。その後、達之助は訪中して周と交流を深め、1962年、日中総合貿易に関する覚書に調印しました。この協定に基づく貿易は、日本代表髙碕達之助と中国代表廖承志のイニシャルから“LT貿易”と呼ばれます。貿易額は伸びつづけ、日中関係改善にひとつの役割を果たしました。
一方、ソ連との交渉課題は、北方漁業の安全操業問題でした。日ソ漁業交渉の政府代表としての訪ソ、また日本においてソ連代表との交渉を繰り返し、1963年に日ソ漁業協定が実現しました。達之助が亡くなる半年前のことでした。

5 母への想い

興楽寺の観音像興楽寺の観音像
達之助は、中学時代に母を結核で亡くしました。やさしかった母に孝養をつくせなかったことを悔やみ、その後は心機一転して勉学に励むようになりました。
後年、福島県を訪問した際、達之助は野口英世記念館で見た一通の手紙に感涙。それは、野口シカが息子英世に宛てたもので、全文かなで綴られ、息子への想いにあふれていました。達之助は自分の母を思い出し、母の愛こそ心の資源だと強く感じ、後に観音像の建立を発心。母の生地にある野崎観音慈眼寺(大東市)の境内に悲母観音像を寄進しました。同様の観音像を、故郷である柱本の興楽寺にも寄進しています。

開拓精神旺盛で、時勢に流されず自らの姿勢をつらぬく仕事人。時には、野生動物や植物に熱く心をよせ、母が子を想う気持ちに涙する人情家。その人生をたどると、あちらこちらに魅力的な姿が浮かび上がってきます。