富田酒 と 服部煙草

杉玉
江戸時代前半の高槻市域には数々の特産品がありました。鵜殿のヨシ(葦、蘆とも)や、服部の煙草、富田の酒と漬物、萩谷の炭に五百住の犁(すき)、三島江の大根に神内の草鞋(ぞうり)などです。なかでも有名だったのが服部煙草と富田酒で、どちらも遠く江戸にまでその名が聞こえていたといわれ、当時著された書物にも意外と容易にそれらについての記述を見つけることができます。しかし、その全盛期が江戸中頃までだったせいか、史料が少ないせいか、あまり研究が進んでいるとは言えないのですが、図書館でアクセス可能な資料について紹介させて頂きたいと思います。

富田酒

富田の酒蔵富田の酒蔵
富田は伊丹・池田と並び称される下り酒銘醸地のひとつでした。富田の台地の下を流れる地下水は、ミネラルに富む酒造りに適したもので周辺地域の米は酒造好適米として有名でした。その創醸は15世紀にまで遡るとの説もあり、最盛期は江戸時代の初め頃と言われています。明暦年間(1655-58)には24軒もの造り酒屋が軒を連ね、8200石余の酒造高を誇っていました。
その中心的存在だったのが、十人衆と呼ばれる町衆組織のトップでもあった紅屋市郎右衛門です。「養生訓」で有名な儒学者、貝原益軒は「べにやとて大百姓あり。其宅瓦屋いらかをならべつくりかさねて、大なること山のごとし。目をおどろかす。いまだかかる大農家を見ず。」と紀行文「有馬山温泉記」に記しています。
富田の酒蔵富田の酒蔵
富田の酒はまず、馬で唐崎や三島江まで運ばれ、そこから淀川の河舟によって大坂へ送られ、江戸へ向かう船に積み込まれたと考えられています。
富田の酒蔵は、現在2軒を残すばかりになりましたが、今でも井戸から汲み上げた地下水で伝統の地酒造りが行われています。

服部煙草

煙草盆煙草盆
江戸時代のたばこは、葉タバコを乾燥させ、髪の毛ほどの細さに刻んでキセルで吸うスタイル。現在とは違い、老若男女を問わず実に多くの人々がたばこを楽しんでいたといいます。服部煙草は、将軍・大名家の御用たばことして珍重されましたが、一方、味がキツイというイメージが流布していました。近松門左衛門は、浄瑠璃「山崎与次兵衛寿の門松」に、大銀持ち、「見つきはきつい服部育ち」の葉屋の彦介というキャラクターを登場させ、悪役として描いています。